Gennie

モンゴル初の女性ラッパーが培った経験と、見据えるシーンの今

Text & Photo: Atsuko Tanaka


モンゴリアンラッパーのスペシャルインタビュー、二人目はGennie(ジェニー)。厳格な祖父母のもと育った彼女がヒップホップに目覚めたのは11歳の頃、もともと作文が得意だったことから、詩を書くようにラップを始めた。モンゴリアンヒップホップの黎明期を代表するグループ、Dain ba Enkh(ダイン・バ・エンヘ)のMCITに才能を認められ、彼がプロデュースを手がけた曲「Born in Ulaanbaatar」をリリース。その後はオーストラリア人の監督、Benj Binks(ベンジ・ビンクス)によるモンゴルのヒップホップシーンをドキュメントした映画「Mongolian Bling(モンゴリアン・ブリング)」に出演するなどして脚光を浴びた。ラッパーとしての活動が22年目を迎えたGennieに、半生についてや、ラッパーとしてどのように今のシーンを捉えているかなどの思いを聞いた。


―来日は何回目ですか?日本の印象を教えてください。

2回目よ。その時も今回のような学術的な公演のために来たの。日本人は文化度が高くて礼儀正しいイメージがあるし、学ぶことが多いわ。

 

―では生い立ちについて聞かせてください。Gennieさんはウランバートルご出身ですが、どんな環境のもと育ちましたか?

母がシングルマザーで働いていたから、祖父母に育てられたの。祖父はすごく真面目な社会主義者で家にテレビがなかったから、AMラジオを聞いたり本を読んだりしていた。成績はすごく良くてスポーツも得意だったわ。家の中では甘やかされていたけど、一旦外を出たらショートパンツにキャップ姿で、男の子とバスケをするような活発な子だった。

 

―当時はまだ社会主義国でしたが、街や人々の様子などで印象に残っていることはありますか?

私が5歳くらいまで社会主義国で、民主化してからは貧困が急に表面化して、マンホールチルドレン(*マンホールで生活している子ども達のこと)が出てきたり、近所のストリートに酔っ払いがうろついたりしてたのを覚えてる。知り合いから離婚の話をたくさん聞くようになったのもその頃ね。

 

―ヒップホップを初めて聴いたのは11歳の頃、叔母のウォークマンを通してだったとか。初めて聴いてどんなふうに感じましたか?

当時、私は母と、離婚した叔母と暮らしていたのだけど、叔母はモンゴルが民主化した後は商売でポーランドに行ったりしていたから、よく外国の珍しいものを持って帰ってきてくれたの。その中にヒップホップのカセットテープもあって、初めて聴いたのは2 Pac(2パック)かWu-Tang Clan(ウータン・クラン)だったと思うけれど、喋るような音楽があることにびっくりした。歌ってメロディがあるものだと思っていたから。リズムのカッコ良さ、ビートのリズムに心を惹かれたわ。

 

―それで自分でもやってみようと思った?

その頃モンゴルのラッパーって、Khar sarnai(ハル・サルナイ)とかDain ba Enkh(ダイン・バ・エンヘ)とか男性だけのグループはいたけど、女性ラッパーがいなかったから、モンゴルで初の女性ラッパーになりたいと思ったの。もともと作文とか作詞が得意だったし、詩を作るかのようにラップを書いたりした。そうしたら13歳の時に国の作文コンクールで優勝して、文科大臣からコンポをもらったの。それまで叔母のウォークマンでしか聴けなかった音楽が、初めてFMでモンゴルだけでなく外国のヒップホップも聴けるようになって、さらに虜になっていった。

―当時最も影響を受けたアーティストは?

色々好きだったけど、モンゴルだとダイン・バ・エンヘとか、外国だとEminem(エミネム ) がカッコいいと思ったわ。それで自分もラップをやってみたくなって、KORGのシンセを持っていた従兄弟にビートを作ってもらって、それに合わせてラップをやってみたりして。最初にできた曲は「選挙(Songuuli)」という曲。

 

―ラッパーになろうと思って、どんなアクションを起こしたんですか?

その頃、MC Townというラップグループが新しいメンバーを募集していて、これは行くしかないと思って連絡したの。男ばかりのグループだったけれど、気に入ってもらえてMC Town唯一の女性ラッパーとしてスタートした。そこのグループに所属しながら、自分の実力を試すために、MGというラッパーが開催した女性のヒップホップ グループ結成のコンテストに参加したら優勝しちゃって。結局2つのグループに同時に所属することはできないとの理由で入れなかったんだけど、MGが彼のいとこのMCIT(エムシット。ダイン・バ・エンヘの主要人物)を紹介してくれることになって。MCITは私にとって神みたいな存在だったからすごいチャンスだと思った。それで彼に弟子入りしたの。

―それでMCITと曲を作るようになった?

そうね、だけど2003年頃にMCITが持っていたハードディスクが壊れて、それまで作った曲が全部ダメになってしまったことがあって、その時に彼はもうラッパーとしての活動はやめるってなって。でも私のプロデュースはしてくれるということで、2004年に彼のプロデュースで「朝」という曲を出した。ちなみに私にGennieという名前をつけてくれたのも彼よ。「君は才能があるから」ってGenius(ジーニアス・天才)という言葉からGennieになった。

―その後、映画「Mongolian Bling(モンゴリアン・ブリング)」に出演されましたね。Gennieさんにとって大きな転機になったと思いますが、そもそものきっかけは?

2006年にモンゴル建国800周年を記念するイベントがあって、その前年からイベントの準備が始まっていたんだけど、監督のベンジ(Benj Binks、ベンジ・ビンクス)がモンゴルのラッパーたちに興味を持っていろんなラッパーに会っていたみたいで、MCITから紹介されたの。それで、3人の主人公の中に私を選んでくれて。多分、ゲル地区を代表するラッパーとしてGee(ジー)を、教養があって都心の裕福な家庭出身のラッパーとしてQuiza(クイザ)を、女性のラッパーとして私を選んだんじゃないかと思う。

―その後海外のヒップホップフェスに出演する機会が増えるなどしましたが、海外に出て価値観や考え方が変わったことはありましたか?

フランスに行った時に、フランス人のグラフィティデザイナーに「モンゴル語ってラップにすごく合うね」って言われたことがあって、それまで言語として向いてるなんて考えたことがなかったから、外国人にはそういうふうに聞こえるんだって自信を深めることができた。あとは、観客ってすごく大事ということも、フランスでショーをやって初めて知ったわ。と言うのは、当時モンゴルではみんなクラシックとかしか聴いたことがなかったから、音楽は座って真面目に聴くものだったし、拍手も少しテンポがずれたような感じだったから。フランス人は言葉がわからなくても叫んだり踊ったりしてくれて、そういう観客の反応がないとやっぱりヒップホップは成り立たないんだって理解することができた。

 

―他にはどんな国に行かれたんですか?

デンマークでヒップホップフェスがあると聞いて足を伸ばしたわ。そのフェスにはパレスティナやキューバ、ボリビアとかからもラッパーたちが来ていて、彼らとレコーディングをしたの。その時自分の名前とかをモンゴル語で書いてたら、それを見たパレスチナ人に「アラビア語と似てるね、逆さまにしたらアラビア語じゃん」って言われて。本当にそうで、びっくりしたわ。


―では、Gennieさんの代表曲について教えてください。

モンゴルの人達に一番聞かれた「女性たちの声(emegteichuudiin duu)」かな。モンゴリアン・ブリングで歌ったようなメローなラップ。モンゴルって離婚が多いんだけれど、一人で子供を育てながら働いている女性のことを歌ってるの。リリック自体は実は10年生(日本の高3)の時に書いたもので、後にビートを入れて作ったのよ。

 

―今のモンゴルのヒップホップシーンに関しては、どんなふうに感じてますか?

私がラッパーとして活動してから22年。周りからはかなり古いラッパーに思われているけれど、22年経っても未だに新人と思ってやってるわ。モンゴルのヒップホップはトラップが出てきて特に変わって、私世代のラッパーたちは「こんなのヒップホップじゃない」って言う人たちもいたけど、私はそうは思わない。音楽って時代とともに変わっていくし、欧米から新しいものが生まれたりトラップみたいな感じが流行ったとしても、モンゴルらしいものが出てくるから、そう考えると全然気にすることないし、新しいものに対応していけばいいと思ってる。

 

―モンゴルで女性のラッパーは増えてきているんですか?

すごく増えているけど、結婚したり子供ができるとやめてしまう人が多い。そういう意味で、成功しているわけではないけれど、ずっとやり続けているのは私くらいしかいないかもしれない。


 

―日本のヒップホップは聴きますか?

日本人のラッパーは、RUMIを聴いてる。前に日本で公演をした時に、イベントのオーガナイザーに、私とスタイルが似ているからって彼女のCDをプレゼントしてもらったの。それ以来今もヘビロテで聴いてるわ。

 

―今後フィーチャリングしてみたい人、一緒に曲を作ってみたいプロデューサーはいますか?

考えたことがなかったけれど、敢えて挙げるならミッシー・エリオット(Missy Elliott)、ローリン・ヒル(Lauryn Hill)、クイーン・ラティファ(Queen Latifah)と出来たら最高ね。

 

―ご自身のラップのスタイルを一言で表すとしたら?

一つのスタイルにおさまりたくないと思ってる。だから“このスタイル”っていうのはなくて、常に変わっていくの。唯一変わらないことがあるとしたら、私から生まれる言葉であり、考えや思想だけれど、それも時と共に変わることがある。言葉って力強いもので、口に発した途端に現実化したりすることがあるじゃない?私たちモンゴル人は言葉の持つ力をすごく信じているの。ヒップホップは時に苦しみや悲しみ、怒りとかを歌うから、現実化したら大変だって気をつけながらリリックを書くようにしてるわ。

 

―今後、ラップを通してどんなことを伝えていきたいですか?

一番伝えたいことは愛。恋人同士だけでなく、人間同士の愛もね。

 

―これから実現したいと思っている夢や目標を教えてください。

22年間やってきて思うのは、ラップってやっぱり詩なんだってこと。だから、これまでの私の詩をまとめた詩集をいつか出したいと思ってる。

 

―最後に、Gennieさんにとってヒップホップとは?

自由。そして自分の思いを人々とシェアできるもの。

Special Thanks: Dr.Ippei Shimamura 


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