joe flizzow

人気デュオ”Too Phat“の結成から、バーバーショップ経営やDef Jam Southeast AsiaのCEO就任まで。マレーシアヒップホップ重鎮のハッスル経済学

Text & Photo: Atsuko Tanaka


東南アジアヒップホップ界の重要人物、Joe Flizzowの人生を探る。クアラルンプールで生まれ、ロンドンのダイバーシティな環境のもと育ったジョーは、叔父の音楽コレクションを通じてヒップホップと出会う。その後、友人のMalique(マリーク)とヒップホップデュオ「Too Phat(トゥー・ファット)」を結成し、レーベル「Positive Tone(ポジティブ・トーン)」と契約して、計5枚のアルバムをリリースした。その後はソロとして活躍する傍ら、バーバーショップ経営や、Def Jam Southeast AsiaのCEOを務めるなど、様々な業界で活動の幅を広げている。今もなお、多くのリスペクトを集めるJoeに、半生や東南アジアのヒップホップシーンについて、成功を夢見る若者へのアドバイスなどを聞いた。


-まず、どのような環境で育ったか教えてください。

クアラルンプールで生まれて、2歳の時に、ジャーナリストだった父がBBCで働くことになって家族でロンドンに引っ越した。当時住んでいたグレンヒルという地区にはいろんな人種がいたから、とてもカラフルで多様性に富んだ子供時代を過ごしたよ。母は俺が母国語をちゃんと喋れるように、マレー語の歌をたくさん聴かせてくれた。母の友人らが訪ねてきた時とかは、みんなの前で歌ったりパフォーマンスするのが好きだったね。その後、7歳の時にクアラルンプールに戻った。

 

- ヒップホップにハマったきっかけは?

きっかけは、音楽プロデューサーだった叔父のCDとカセットテープのコレクション。まず、アルバムのジャケットに惹かれてね。LLクールのアルバム「Walking With A Panther」のカバーを見てかっこいいなと思った。それから音楽を聴いて、すっかり夢中になった。その後、13歳の時にドクター・ドレーの「The Chronic」を聴いた時は、リリックを丸暗記したよ。彼の曲だけでなく、スヌープ・ドッグ、ナズとかの曲もすべて覚えた。

 

- その後、ラッパーになろうと決めたのですか?

ラッパーになろうって思ったわけではなくて、ただラップするのとパフォーマンスが好きだったんだ。それから17歳か18歳の頃、SAEというサウンドエンジニアリングの学校に通ってた親友のクリストファーから、課題のために誰かの曲を録音しないといけないからラップしてくれって頼まれて。俺は友人のマリクとケビンと彼の所へ行って、曲を録音した。次の週にも別の曲を録音した。そうしたら、いつの間にかそのデモテープがコピーされまくって、今で言うバズったんだ。

 

-それはすごいですね。何年頃の話ですか?

97年の終わりか98年の初め頃。その後、デモを聞いたプロモーターから電話があって、ライブに出ないかと言われた。ちなみにその電話を受けた時、俺たちはまさにこのストリート、いや、次のブロックだったかな、にあるサイバーカフェにいて、グループ名を「Too Phat」に決めたんだ。その名の由来はこのストリートで滑ってたスケーターが、トリックを決めるたびに“Phat!(ヤバい)”と叫んでたから。

 -なるほど。このストリートはジョーさんの歴史の始まりとも言えますね。

そう、だからこの物件(バーバーショップ)が空いた時、すぐに抑えた。俺にとって特別な意味を持ってるからね。このバーバーショップは単なるビジネスではない。ここに来るたびに、自分の歴史の始まりを思い出すよ。昔、この近所にはレコードショップがあって、地元の人たちのコミュニケーションの場だった。それらがなくなってしまった今、このバーバーショップは地元の人たちにサービスを提供するだけでなく、ヒップホップも聴けるし、最高な場所だと思ってる。実は、店のアイデアニューヨークの「FRANK'S CHOP SHOP(フランクス チョップ ショップ)」から得たんだ。実際に店を訪れて、同じようなバーバーショップをマレーシアに開きたいとオーナーのマイクに話して許可をもらったんだ。

-確かにそう言われてみたら、インテリアがチョップ ショップに似てますね!

あと、この店は俺がホストを務めるサイファー番組「16 Baris」でもお馴染み。最初の 2 シーズンはここで撮影してたけど、制作規模が大きくなったから、今はもっと大きな別の店で撮影してる。

- バーバーショップの支店は今いくつあるんですか?

2015年にこのバーバーショップをオープンして、今は27店舗まで拡大した。と言ってもフランチャイズだから、俺が全部を所有しているわけではない。自分が持ってるのは10店舗くらいだね。働いてるバーバーは、正当な教育を受けてこなかった子達が多いけど、ここで働いて技術を学んでもらってる。初めてマレーシアの政府から認定を受けたバーバーアカデミーもあるんだ。店で数年間働いて自分のバーバーショップを開きたい人は、それも出来る。フランチャイズの料金はかからず、俺たちのパートナーになるんだ。そうやって店を増やして成長してきた。

- いいですね。それでは話は戻って、最初のショーはどうだったか教えてください。

めちゃくちゃ暑い日なのに、俺はフェイクのFubuジャケットにバギージーンズ、ティンバーランドのブーツという格好で行ったんだ。汗だくだったけど、自分が世界で一番クール男だと思ってたよ(笑)。このイベントはマレーシアでは久しぶりのヒップホップイベントだったから、とても意義深いものだった。俺たちは出演者の中で唯一初めてパフォーマンスするグループだったにも関わらず、デモテープが出回ってたから、みんな俺らの曲を聴きたがって盛り上がった。ショーの最中は、ステージを叩きながら、俺と契約したいと叫んでいる男がいた。俺は彼に、自分のショーを終わらせてくれ!なんて言ってたな。

-その後は楽曲制作に力を入れていったんですか?

それから半年くらいはアンダーグラウンドでライブ活動をメインにやって、その後はもっと曲の制作に力を入れて、最終的にアルバムを作った。ショーで俺らと契約したがっていたのは音楽プロデューサーだったんだけど、俺たちは時間をかけて考えたかったから断って、結局ライブのプロモーターにマネージメントしてもらうことになった。

  

-ファーストアルバム「Whuttadilly」はいつリリースしたんですか?

99年。プロデューサーは、90年代の伝説的なグループ「Naughtiest Maximons」の元メンバー、IllegalとG Soulだった。彼らは俺たちの可能性を信じてくれて、スタジオに招待してくれたんだ。制作の大部分は彼らがやってくれたけど、俺らは全曲マレー語ではなく英語でラップしたから、レーベルを見つけるのが大変だった。結局、最初のライブの時に俺たちと契約したいと言っていた人と契約することになった。「Positive Tone」というレーベルで、彼らはマレーシアで初めてアーバンアーティストを発掘したんだ。そこと契約して、2007年に俺らが解散するまでの7年間に、4枚のアルバムと1枚のコンピレーションアルバムをリリースした。

- グループ解散後はソロに移行して?

そう、でもソロアルバムは2009年までリリースできなかったから、その2年間はすごく辛い時期だった。それまでデュオとして成功してたのに、解散してすべてが止まったからね。“デュオの片割れ”として誰も俺をブッキングしたがらなかったし、次の動きを考えないといけなくなった。それでその頃タイがアジアのヒップホップの中心地として盛り上がっていたから、バンコクに行って、「Titanium(タイタニウム)」のメンバーや他にもヒップホップで活躍していた人たちと関係性を築いた。

-成果はどうでしたか?

何度かバンコクへ足を運んで彼らの動きを見ているうちに、DJを招致したり、イベントプロモーターや洋服のブランドをやるとか、違うビジネスを展開すればやっていけるんじゃないかって、良い兆しが見えた。それで俺はマレーシアに戻って、彼らがやってることと同じことをやってみたんだ。ラッキーなことに俺はよくパーティーに遊びに行って、クラブのオーナーをたくさん知ってたから、客があまり来ない日の夜をマネージメントさせてくれって頼んで。時には海外からDJを呼んで、東南アジアの他の国のプロモーターと共有してDJにツアーをさせたりした。そうすれば飛行機代とかを折半して、もっと多くの都市のツアーが出来るからね。

 

-そうだったんですね。その頃の経験からは何か学んだことはありましたか?

自分たちの間では人気の曲が、クラブではプレイされていないことに気づいた。Too Phatはめちゃ成功したけど、当時のマレーシアのラップはほとんどが堅い感じのスタイルが多かったんだ。俺はそれを変えようと思って、昔やってたような手法は捨てて、実際にストリートで使われているような言葉を巧みに使うようにした。俺の「President」 というアルバムに入っている「Do It, Duit」という曲でそれをやって、2枚目のアルバム「Havoc」が出す頃までに、今のラップシーンのスタイルの基礎を築きあげた。

- さすがです!ところで、今はアーティストの活動、バーバーショップの経営以外に、どんなビジネスをされているんですか?

 Def Jam Southeast Asia の CEO をやってるよ。ベトナム、タイ、インドネシア、マレーシア、シンガポール、フィリピンにオフィスがある。アーティストは最初6 人だったけど、今は 6 か国に約 30 人のアーティストを抱えてる。俺らの取り組みの 1 つとして、レーベルとしてだけでなく、ディストリビューションの会社としても機能することにある。そうすることで、起業家を目指すアーティストが自分のやりたいことを出来るし。ちなみにシンガポール出身のAlyph(アリフ)というアーティスト は、今マレーシアを拠点に活動してるんだけど、最近はインドネシアで 1 位のヒット曲を出した。マレーシア、シンガポール、インドネシア、タイとか、それぞれの言語が違っても、東南アジアのヒップホップの声となって、最終的には世界的なスーパースターを出すことも不可能ではないと思ってる。

 

-素晴らしい。では、ジョーさんのように成功したいと思っている若い人たちにアドバイスをするとしたら?

最も大切なことは、大きな夢を持つこと。情熱を持ち、それに固執する。情熱は魂の糧となるからね。それから目標をできるだけ高く設定して、それを達成するための計画を立てる。あとは一生懸命働くこと。そうすれば失敗のリスクは減る。でもたとえ失敗したとしても、それを負けと認めるのではなく、教訓として前進していけばいいと思う。

 

-最後に、ジョーさんにとってヒップホップとは?

全てだね。俺の歩き方、呼吸の仕方、考え方、戦い方、愛し方とか。それら全てが俺にとってのヒップホップだ。